【Tokyo Pops編】

6 février 2018

Les dieux de l'arène

フランス人の著者が相撲を観たときに感じたエピソード。昨今のニュースでは相撲業界があれこれいわれていますが、異国の人間から見るとやはり、所作ひとつとっても、神聖なものに見えるようです。(もちろんその通りなのですが。)こちらがハッと気づかされるエピソードです。

 

 

<原文>Les dieux1 de l'arène2

 

Pour un non-japonais, ces « bébés3 » paraissent anormalement gras et gigantesques.  Mais l'art4 des sumô-tori va bien au-delà de cette image de mastodonte suralimenté5.  Je ne connais pas un seul occidental, au bout de6 quelques jours de tournoi, qui ne se soit pris de7,8 passion pour le jeu du « pousse-toi de là que je m'y mette9 » de ces colosses dotés d'articulations aussi souples que celles d'une danseuse classique.

 

Les techniques pour repousser l'adversaire hors de l'arène sont innombrables. Toutefois, ce sont les dernières secondes avant l'assaut qui10 me donnent des frissons.

 

Pour commencer, une curieuse parade d'intimidation a lieu sur le bout de terre sacrée.  Tels des Culbuto11 géants, les deux masses de muscles chavirent d'un côté, puis de l'autre. Ils accentuent leur basculement en s'administrant une claque cinglante sur chaque cuisse tandis que12 la jambe opposée s'envole littéralement jusqu'à hauteur de l'oreille. Quelle audace et quelle souplesse dans l'exécution de ce ballet!

 

Le rituel n'est pas fini et les titans jettent ensuite des poignées de sel sur l'arène, prouvant que la lutte se fera à main nue13. Puis, immobiles, les deux « guerriers de force » se défient du regard.  Et soudain, l'énergie jaillit tel un éclair.  Les chairs claquent et s'entrechoquent, l'adrénaline est à son summum sur l'aire de combat et dans la salle14.

 

La mêlée15 devient œuvre esthétique, moment de création entre deux forces, un trait de calligraphie unique16, sans repentir.  Certains invités des premiers rangs17 bénéficient parfois du privilège ultime de recevoir dans les bras un cadeau de plus de cent cinquante kilos, qui dégringole et atterrit en contrebas, après un assaut particulièrement violent.

 

 

 

<試訳>闘技場2の神々1

 

日本人でないものにとっては、力士という「赤ん坊」3は異常なくらい太っていて巨大に見える。しかし「相撲取り」の技術4は栄養過多の巨漢5というイメージのはるか上を行く。相撲の試合を数日見たあと6、クラシックバレーのダンサーのようなしなやかな関節を持つ大男達による「押し合いっこ9」への情熱に取り付かれない7. 8西洋人は、私の知っている範囲では一人もいない。

 

相手を土俵の外に押し出す技術は数え切れないほど存在する。が、なんといっても私の心を震わせるのは、押し出す寸前の瞬間だ10

 

まず、神聖な土俵の端で、威嚇のための奇妙な行列が執り行われる。巨大な起き上がりこぼしのような112人の筋肉の塊が、片方にひっくり返りそうな体勢になり、次いで別な方向にひっくり返りそうになる。彼らは腿を叩き付けるようなバーンという音をたてることで、その体勢を強調する。反対の足はと言えば12、文字通り耳の高さまで高々と上がっている。このバレーのような動作の大胆さとしなやかさと言ったら!

 

儀式はまだ終わりではない。巨人達は次に一握りの塩を土俵に投げる。闘いが素手13で行われることを証明するためだ。ついで2人の力士は、不動のまま挑戦的な眼差しを交わす。突然、エネルギーが稲妻のように放たれる。肉が音を立ててぶつかり合い、アドレナリンが闘いの場とホール14の中で頂点に達する。

 

もつれ合い15は美的作品となる。二つの力による創造の瞬間、悔いなく一息で描かれる書道の線16だ。最前列17に座っている招待客達は、特に激しい闘いの後転げ落ちて来て土俵の下に着地する150kg以上の贈り物をその腕の中に受け取るという最高の特権を手にすることが時にある。

問答スタート!!

部員A

部員C

一同

一同

部員B

部員A

部員D

部員D

部員A

部員D

部員B

編集長

一同

部員B

一同

部員D

部員D

一同

一同

部員A

部員C

部員D

部員D

部員B

部員B

部員D

部員B

部員D

今回の相撲に関するテキストを読んで思ったのは相撲を格闘技=スポーツと捉えると間違いだということです。相撲は元々神事でした。今でも一連の所作やしきたりにそれが残っています。それは外国の人にはなかなか伝わらないのではないでしょうか。筆者は塩を撒くのは素手であることを示すためと書いていますが、これは土俵を清めるためです。手に何も持っていないことを示すのは塵手水(ちりちょうず)あるいは塵を切ると呼ばれる作法です。蹲踞(そんきょ)して揉み手をしてから柏手を打ち、両手を広げて手のひらを返す動作です。四股を踏むのも、陰陽道に基づき、足を踏み鳴らして悪霊=醜(しこ)を追い払うことからきていると聞いたことがあります。

私もあるフランス人から「他のスポーツは『する』とか『やる』というのに、なぜ、相撲だけは『取る』と言うのか」と聞かれ、答えられませんでした。彼は私だけでなく、日本人の誰からも明快な答えが得られないので、相撲協会に電話して聞いてみたそうです。

それで相撲協会の回答は?

「分りません」だったそうです。

(笑)

土俵の上に下がる4色の房も古代中国の季節や方角を司る四神獣を示すものです。即ち玄武(黒・冬・北)、青竜(緑・春・東)、朱雀(赤・夏・南)、白虎(白・秋・西)この四神獣は高松塚古墳の壁にも描かれていました。

トリビア・ンだねぇ

つまり私が言いたいのは、翻訳は言葉だけではなく、文化の問題だということ。知らないことは翻訳できないのです。それで、まずタイトルですが、Les dieux de l'arèneを文字通り訳せば「闘技場の神々」となりますが、相撲の話と分かった後ではしっくり来ない気がします。

では、どうしたいと?

闘技場は土俵に置き換えれば、読む日本人にはすっきりします。

神々は?

闘神になりますかねぇ?

それは大袈裟すぎる気がするので、荒ぶる神々としたら?

なるほど、この後の立会前に次第に高潮してくる緊張感とリンクしてきますね。

このテキストを読むのが誰なのか、によって訳に求められていることが違うように思えます。

どういうこと?

日本語に訳すにしても、相撲を少しでも知っているのと、まったく知らないのでは違うでしょう。たとえば相撲取りを« bébés =赤ん坊»と表現していますが、相撲取りを見たことがある人には体型が赤ん坊に似たぽっちゃり型と想像がつきますが、まったく相撲に未知の人であれば、何をどのように連想するのでしょう。

相撲取りのl'artは技術?技?

う~ん、力士の繰り出す技の数々は、と訳すのはどうでしょう。四十八手は意訳過ぎる?

l'artが単数なので、これは技のことを言っているのではなく、相撲がひとつの芸術になっているということなのではないでしょうか?

でもavoir l'art de + inf には、~するのがうまいという意味があり、技術の意味で複数でなければならないということにはならないのでは?

とりあえずアートとしますか。

エリックに意見を聞いてみましょう。

ここでのartは技ですね。でも、単なるテクニックの話ではないです。お茶を点てる一連の所作が茶道となるように、取組に至る一連の所作が「相撲道」を作り出していると前後の文脈からいえます。

それ、良いですね。

文法に強い人に解説をお願いしたいのですが、7と8のne se soit pris de は前のJe ne connais pasと合わせて「~しない人を知らない」と二重否定形となっているのですが、後ろの否定形にはpasが付かないのは決まりですか?それとここで接続法が使われていることがどうも良く分らないのです。

私は格別、文法に詳しいというわけではないのですが、以前勉強していた時の記憶で言いますと従属節で、主節が否定の際の形容詞節の中ではneのみで否定の意味になる、つまりpasは要らない、という文法がありました。文例は、Il n’y a personne qui ne sache cela. 「そのことを知らない人はいない」。ですから、今回はこれに該当するのではないかと思います。

ありがとうございます。そうじゃないかと思っていたのですが。

嘘つけ!

接続法についてさらに言うと、これが使われる場合として「否定・条件を表す構文中の語を限定する形容詞節」とあったので、これに該当するのではと思います。接続法は、要するに観念の世界を表現する法ですから、ここでは筆者は、そういうひとが実際いるかどうかは別にして、そういう人はいないという想定をして、発言をしていることになるのではないでしょうか。そのニュアンスに重点を置いて、訳文としては、何処かに「そのような」とか「そんな」を入れればいいように思います。例えば、「そんな西洋人は」とか、・・・・。どうでしょうか。接続法そのものは沢山種類があるので、他の説明が勿論あるかもしれませんが。

大体、接続法という名称がふさわしくないというか、紛らわしというか。

そうなんです。江戸末期から明治にかけて輸入された観念を日本語にするうえで社会、経済、自由など新しい言葉が生み出されました。一方、それらの日本語としての意味を外国語に照らして理解しないと本当は分からないのでは、と何時も思っています。「接続法」もその一例です。実は私が外務省研修所でフランス語の講義を受けたときのフランス人講師は接続法を教える時、「フランス語は、あるものがそうであるか、ないか、知らないで、言ったり質問したり出来る、それが接続法です」と言ってました。逆に言えば、それを隠して話せる、とも。だから外交用語としては便利なのだとも。30年以上前の授業ですが、今でも覚えています。

もうひとつ9のpousse-toi de là que je m'y mette も接続法なのですが、ここで接続法が使われる理由が良く分りません。「自分がいる場所からどけ」という原義から「押し合い」という意味になるのですか?それならpousse-toi d’où je me mets.にできないの?

できません。「自分がいる場所」ではなくて、「自分がその場所を占めるために」です。つまりpousse-toi de là pour que je m'y metteなんです。

なるほど、pour que + 接続法なんだ。それで納得。

やっぱりね。そうじゃないかと思っていたのですよ。

嘘つけ!

試訳ではl'assautを押し出すと解釈していますが、これは立ち合いと考えないと時間の前後が合いません。その後のパラグラフは仕切りの手順についてですから、les dernières secondesは最後の数秒とか瞬間ではなく、立会前の仕切り、とするのが正しいのでは。

 

11のtels des Culbutoは「起き上がりこぼしのような」ではなく、「起き上がりこぼしのように」ではないでしょうか

あ、なるほど。前にbébés =赤ん坊とあるので、混同しました。ここでは力士の姿が「起き上がりこぼしのような」のではなく、四股を踏む力士の動きが「起き上がりこぼしのように」左右に揺れるということですね。

う~ん、筆者のイメージがどんなものか分らないので何とも言えませんが、力士が土俵に上がって、立ち合い前に四股を踏む。つまり足を高く上げて踏み下す動作がbasculerで、足を踏みおろしたときに反対側の腿を叩いてパンという音を立てるということかなと思います。でも、実際の四股のとき、そんなことしていたかな?。

実際にどうかは知りませんが、テキストを読む限り、そう解釈できます。

試訳では「…その体勢を強調する。反対の足はと言えば…」となっているのですが、tandis queは同時性を表しているので、その感じを出したいです。

最後のla salle をどう訳しますか?国技館?

東京に限ればそうですが、地方場所もあるので、体育館になるのかなあ。

でも逆に国技館を体育館と呼ぶのはどうかと。

それなら場所会場でしょうか。

La mêlée は「もつれ合い」よりもっとしっくりくる言葉はない?取っ組み合いでもないし。

ぶちかまし、突っ張り、かち上げ、押し、引き、がっぷり四つ、投げを全部ひっくるめる言葉がありますかねえ。

ここは西洋人の眼に映る相撲ということで肉弾戦では?

それだと直接的過ぎる気がするので、やはり取組ですかね。

 

16のrepentirは辞書を見ると、「絵や文章の修正・訂正」という意味があるようですがいかがでしょうか。

一筆書き、でなければ修正や訂正なく一気呵成に書き上げた書の墨跡では

 

美文調過ぎない?

premiers rangs は最前列でも間違いではないけれど、通ぶって「砂被り」としましょう。

部員B

部員B

部員A

部員A

部員A

部員A

部員C

部員B

部員B

部員B

部員B

エリック

部員A

部員A

部員A

部員A

エリック

部員A

部員D

部員B

エリック

部員C

部員A

部員A

部員C

部員A

部員A

などなど、、、問答を経て。

↓↓↓

<部員による検討結果>

土俵の荒ぶる神々

相手を土俵の外に押し出す技は数え切れないほどあるが、なんといっても、私の心を震わせるのは、立会い前の仕切りの時間だ。

 

まず初めに神聖な土俵の端で、奇妙な一連の威嚇行動が執り行われる。2人の筋肉の塊が、巨大な起き上がりこぼしのように片側にひっくり返りそうな体勢になり、次いでもう一方の側にひっくり返りそうになる。一方の脚が文字通り耳の高さまで高々と上がっているとき、彼らはもう一方の腿を叩き付けるようなバーンという音をたてることで、その所作を強調する。このバレーのような動作の大胆さとしなやかさと言ったら!

 

儀式はこれで終わりではない。巨人達は次に闘いが素手で行われることを示すために一握りの塩を土俵に投げる*訳注。次いで2人の«力士 »は、身動きせず挑戦的な眼差しを交わす。突然、エネルギーが稲妻のように放たれる。肉が音を立ててぶつかり合い、アドレナリンが土俵と会場内で頂点に達する。

 

取組は美的作品となり、二つの力による創造の瞬間は迷いや修整なく一気に書き上げられる書の墨跡だ。そして時には、(最前列の)砂被り席に座っている招待客達は、特に激しい闘いの後、土俵の下に転げ落ちてくる150kg以上の贈り物をその腕の中に受け取るという最高の特権を手にすることがある。

 

 

※訳注:塩を撒くのは土俵を清めるため。素手であることを示す所作は塵手水と呼ばれる所作で、徳俵で蹲踞(そんきょ)して揉み手をしてから柏手を打ち、両手を広げて手のひらを返すのがそれである。

 

エコール・プリモの講座、「フランス語で街歩き」でも、先日、両国に行ってきました。

やはり、フランス人に相撲のことを説明するときは、文化的背景なしでは難しいでしょう。

翻訳問答クラブの部員たちは、様々なジャンルの翻訳に携わっていたり、私生活でもいろいろなことに興味をもっている人達の集まりなので、自ずと試訳が様々な解釈で軌道修正されていきます。

これは大変なことでもありますが、それぞれがいろいろな気づきを得ることができ、有意義な時間でもあります。

さぁ、次のテーマもどんとこい!?

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