【Tokyo Pops編】

19 mars 2018

Bains publics

著者は学生寮のある駒場から電車で2駅の下北沢にある銭湯へ友達と出かけます。お風呂好きの日本人の習慣や入浴のマナーなど驚くことも多いようですが、最近外国人の間で温泉ブームもあるということですし、是非、日本のお風呂にゆっくり浸かってリラックスして欲しいものです。

 

 

<原文>Bains publics

 

Ce soir, j'entraîne Aymeric, un de mes voisins d'étage, jusqu'à un sentô de Shimokitazawa.  Pour les Japonais, la baignade du soir est un vrai rituel qui ne supporte aucune entrave1.  Même s'ils rentrent tard, les hommes nippons2 ne se coucheront jamais sans s'être littéralement « lavés » des tensions de la journée dans le bain bouillant qui les attend3. L'eau bien chaude du o-furô est censée faire disparaître spontanément la fatigue et détendre avant la nuit.

 

Le sentô où nous allons se situe dans une banlieue familiale4 à deux stations de notre résidence, loin des touristes et des lieux à la mode.  Au bout de la rue, la haute cheminée du vieux bâtiment en bois fume.  Bientôt, nous apercevons nos deux amis, Pénélope et Hideyuki postés5 à l'entrée, devant le rideau de coton.

 

Pénélope et moi entrons par le côté réservé aux femmes, signalé par un idéogramme6 rouge.  L'endroit date d'avant la guerre et7 sent le propre.  A l'accueil, nous achetons un bout de savon et du shampooing au distributeur automatique.

 

C'est un employé, le bandai,  perché sur une chaise haute à la manière d'un arbitre de tennis, qui gère simultanément l'entrée vers le bain des hommes et vers celui des femmes.  Le bâtiment est en effet séparé en deux, la mixité étant interdite depuis la fin du XIXe siècle.  ( Le commodore Perry débarquant au Japon en 1853 avait été outré de la promiscuité dans les bains et le shôgun8 qui ne voulait sans doute pas passer pour9 un dépravé décida d'y remédier avec une nouvelle loi. )

 

J'ai toujours rêvé d'être une souris et de passer par le petit trou de la paroi séparant le bain des hommes de celui des femmes, qui servait jadis à faire passer le savon entre les familles.

 

Le surveillant de notre sentô10 évite de croiser le regard des baigneuses11 et se contente de tendre la main pour recueillir leur obole.  Et c'est seulement en arrivant aux vestiaires que nous réalisons que nous n'avons pas payé le modeste droit d'entrée, absorbées par notre bavardage.12  L'employé n'a même pas remarqué que nous avons resquillé13.  De toute façon, au regard de notre tenue, il est maintenant trop tard pour aller réparer notre faute.

 

Nous pénétrons14 dans le kakeyû, la première salle où l'on se lave avant le bain. Nous essayons de repérer15 deux tabourets.  La clientèle est hétéroclite: une mère qui plaisante avec son garçonnet tout en le frictionnant de la tête jusqu'aux orteils (les petits garçons sont acceptés de ce côté jusqu'à l'âge de huit ans), une grand-mère qui se frotte la peau avec un sachet de son, une jeune fille qui astique le dos16 de sa voisine en riant joyeusement, une femme qui se brosse les dents.  On se croirait dans une école d'esthéticiennes tant chacune d'elles procède avec méthode et soin.

 

Je l'avoue, moi qui rêvais d'être une souris, je me sens plutôt comme un éléphant dans une boutique de porcelaine17 (devrais-je dire, comme un sumô – nu comme un ver! - dans un magasin de vases d'ikebana?).  Les Japonaises si prudes habituellement, sont incroyablement à leur aise quand elles sont nues au sentô.  Tout en bavardant, elles effectuent ce rituel purificateur avec naturel, leur corps bouge, se plisse, s'aplatit, rebondit pendant qu'elles se frottent18, se frictionnent, se gomment à l'aide des accessoires de grattage de base: serviettes en nylon, pierres ponce, éponges métalliques19 ou naturelles, en luffa.

 

En tant qu'adepte de la brève douche matinale que les Japonais appellent ironiquement « l'ablution du corbeau », ce long rituel m'intimide.

 

Les clientes du bain, aux corps graciles et généralement petits, sont assises sur des tabourets si minuscules qu'on croirait des meubles de chambres d'enfants.  Idem pour leur attirail: mini-savons, mini-serviettes, mini-bassines. J'ose à peine glisser un pied sur le carrelage humide de peur d'ébranler l'harmonie de cet univers de poupée.

 

Mon tabouret sous le bras, j'avance en tentant de cacher ma nudité avec un tenugui, serviette cache-sexe aussi grande qu'un confetti20.

 

Je m'accroupis devant une rangée de micro-robinets (installés à trente centimètres du carrelage!) et cale mes genoux sous mon menton.  Ainsi recroquevillée, j'observe discrètement ma voisine qui se lance avec énergie dans une friction intensive. Je me savonne avec un peu moins de conviction - après tout j'ai déjà pris ma douche de corbeau ce matin –  et, prenant modèle sur elle, je me rince en m'aspergeant généreusement à l'aide d'une bassine, le maru-ko-oke.  Mon exercice doit plus tenir de l'éléphant qui se douche avec sa trompe21, car la baigneuse à mes côtés prend discrètement ses distances avant de se rincer à l'eau fraîche et de s'essuyer vigoureusement le corps.

 

 

 

 

<試訳>銭湯(公衆浴場)

 

夕方、同じ階に住むエメリックを連れて下北沢の銭湯に行く。日本人にとって夜の入浴は、あらゆる束縛から解放される大切な生活習慣1だ。遅い時間に帰宅しても日本男児2は、お湯の中にその日の緊張を文字通り「洗い流して」から寝る。夜寝る前に、熱いお風呂3に入れば直ちに疲れがとれ、リラックスすると考えられている。

 

これから行く銭湯は、観光客からも流行からもはずれた場所4にあり、住んでいるところから電車で二つ目の駅。通りの奥にある古い木造の建物、背の高い煙突からは煙が出ている。しばらくすると、友人のペネロプとヒデユキが、木綿のカーテン(暖簾)の前の入り口にいる5のに気がついた。

 

ペネロプとわたしは、赤い標識6で記された女性専用口から入る。この銭湯は戦前から建っているが7、清潔感がある。受付にある自動販売機で少量の石鹸とシャンプーを購入する。

 

まるでテニスの審判席のように、高い椅子にいる使用人の「番台」は、男湯側と女湯側の入り口を同時に管理している。19世紀末から混浴は禁止されているので、風呂場は、実際2つに分かれている。(1853年日本に上陸したペリー提督は、おそらく、混浴の入り乱れている様子に憤慨し、堕落の方向に向かうことを望まず9、新たな法律を定め8、改善することを決めた。)

 

わたしは、ねずみになって男湯と女湯を分けている壁の小さな穴をすり抜けたいといつも思っていた。昔その小さな穴は、家族の石鹸をやり取りに使われていたのだ。

 

銭湯の監視人10は、お客11と視線を合わせないように、お風呂代をもらうために手を差し出す。それも、わたしたちがおしゃべりしながら、わずかな入場料を払ったか払わなかったかをロッカーにたどり着く時だけ見ている12。その使用人は、わたしたちが、盗み見をしたかどうかさえ気にしない13。いずれにしても、わたしたちの様子を見て、その間違いを直そうとするにはすでに時遅しである。

 

まず風呂桶に入る前にからだを洗う「掛湯」に浸かる14。あわたしたち二人は、まず、小さな腰掛2個をとる15。お客さんはさまざま。小さな男の子のお母さんは、こどもの頭から足の親指まで冗談を言いながらごしごしと洗っている。(男の子が女湯に入ってもいいのは8歳まで)小さな糠袋で肌を擦っているおばあちゃん。楽しそうに笑いながらお隣の背中を磨いている16女の子や、歯磨きするひと。まるで各自の美容法に従うエステ教室さながらだ。

 

白状すると、わたしはねずみでいたいか、むしろ、陶器で作られた象のような17気分だった。(何と言ったらいいだろう、生け花の花瓶のお店の中にいる真っ裸の相撲取りみたいだ。)普段はとてもすましている日本女性が、ひとたび銭湯で裸になると信じられないくらいくつろいでいる。お喋りしながら、自然にこのお清めの習慣を行っている。お湯の中に浸かっている18ときは、手足を伸ばしたり縮めたり、寝そべったり、動かしっぱなしだ。ナイロン製タオル、軽石、金属製スポンジ19や自然素材のヘチマなどの道具で洗っている。

 

日本では、皮肉として「カラスの行水」といわれるが、朝の短時間シャワー愛好家として、この長風呂習慣には恐れ入ってしまう。

 

華奢で小柄な銭湯の女たちは、子供部屋用ではないかと思われるような小さな腰掛に坐り、道具も同様に、石鹸、タオル、桶も小ぶりなものだ。この人形の世界の調和を壊さぬようわたしは、濡れたタイルに足を滑らせないようにしなければならない。

 

桶を抱えて、「手ぬぐい」という花吹雪と同じような大きさのタオル20で、裸の自分の前を隠しながら前進する。

 

(タイル張りの床から30センチのところに設置された)小さな蛇口の前にしゃがみ、あごの下に膝を置く。こんな風に縮こまって、わたしは、お隣さんが体をしっかりと擦り、勢いよく体に湯を掛けているところを控えめに観察する。わたしは自信なく自分の体を石鹸で洗い(今朝、カラスの行水をしてきたばかりだったので)お隣の真似をして、「丸桶」と呼ばれる桶にたっぷりお湯を入れて洗い流す。まるで自分の鼻で水浴びをする象のようなやり方だったに違いない21。なぜならお隣さんは、(最後に)自分を冷たい水で洗い流し、しっかりとからだを拭く前に、控えめにわたしとの距離をとったのだから。

 

 

問答スタート!!

部員A

編集長

編集長

編集長

部員A

部員C

部員A

部員C

部員A

部員C

部員A

部員C

部員A

部員C

部員B

カロリーヌ

部員A

部員A

部員C

部員C

部員C

編集長

部員A

編集長

1. ne supporte aucune entraveですが「何があろうと果たされなければならない生活習慣」を私はむしろ儀式と捉えると面白いのではないか、と思います。それをvrai とqui以下で強調している。vraiは「そう言っても良いくらいの」という意味を加え、qui以下は、「一切の邪魔を許さない、邪魔など入り込みようのない」という感じで、「邪魔など入り込みようもないほど儀式と言っても良い」と訳すべきかなと思います。

 

いや、私は逆にもっと軽い感じで「日課」程度なのではないかと思いました。「日本人としたら、家に帰ってきてお風呂に入らないなんて無理、無理、ありえない!」という感じでしょう。

 

ではカロリーヌにどういう意味でこの言葉を選んだのか聞いてみましょう。

Rituel: ici le sens est “ une habitude de tous les jours; importante qui demande/reclame/se fait dans un ordre précis et soigneux dans son déroulement. C'est presque “religieux” disons-nous en français= c'est important psychologiquement mais on le fait naturellement .Cette habitude fait nécessairement partie intégrante de la journée.

 

カロリーヌの説明によれば、毎日の習慣ではあるが、清めの儀式のような「宗教的」意味合いもあるということでしょう。

フランス人の観点から見て、日本人の入浴が宗教的に感じられるということには意味があると思います。日本には神道に結びついた禊(みそぎ)という言葉と儀式があります。穢れを祓うための水垢離や滝行、さらに神社に詣でる前に手と口を洗い清める手水もそのひとつと言って良いでしょう。日本人の風呂好きは禊の延長という考え方ができるのではないかと思います。こうなると文化人類学の範疇ですね。ともかく、ここでは儀式と訳す方が適切なのではないでしょうか。そうすると、数パラグラフ後の洗い場の描写「elles effectuent ce rituel purificateur」は「この清めの儀式を執り行っている」と訳して、前後を合わせるべきでしょうね。

rituelという単語の解釈だけでここまで議論が深化するとは思いませんでした。

2. les hommes nipponsは、著者にそのつもりがなく、単にJaponaisを繰り返さないようにしただけかもしれないのですが、結果として、これを日本男児としたのは妙訳だと思います。

3. le bain bouillant qui les attend と言うからには、家に帰るとお風呂が沸いているということですね。奥さんが「お風呂が先?それとも御飯にする?」なんてね。以前、サラリーマンが家に帰っても「飯」「風呂」「寝る」の三語しかしゃべらないなんて話がありましたね。

4. 試訳ではbanlieue familialeのfamilialeは、意図的に訳していないのでしょうか。familialeは、ここでは単に、観光地でもない、オフィス街でもない、商店街でもない、ということを言いたいのであって、殊更強調することもないのかもしれませんが、「住宅街」とでも言ってもいいのではないでしょうか。

住宅街というと範囲が広すぎて、そう訳すのは踏み込みすぎなのではと私には思えます。下北沢というのは(浅草のような)観光地でもなく、(原宿のような)ファッションの発信地でもなく、親しみやすい庶民的な街、気の置けない一画ということでどうでしょう。banlieueは都心から外れているくらいの意味で、郊外というのはどうかと。

でも著者に言わせれば駒場も田舎ですから。

5. postésには、もう少しニュアンスを出してもいいのではないでしょうか。まるで「歩哨が立っている」ような感じではなかったのかと思います。翻訳では、「入り口で直立して待っていた」ではどうでしょうか。

ここも先ほどのhommes nipponsと同じように、著者は立っていたという表現に似たような単語を繰り返さないようにしただけで、直立不動のニュアンスはないように思います。違う言葉を当てはめるなら、入り口前に陣取ってはどうでしょう。

6. idéogrammeを試訳では標識としていますが、本来は表意文字という意味ですからこれは漢字のことですね。

7. L’endroit date avant la guerre et sent le propre.ですが、etには「対立」の意味があるのは辞書に載っていたのですが、どうしてmaisではないのでしょうか。

「古いけれど、きれい」と言うと、古いものは通常汚いという固定観念になってしまいませんか?銭湯の建物について言えば「古い」ことと「きれいかどうか」ということとはまったく関係のない並列事項としてとらえているのでしょう。

8. 私が「あれっ?」と思ったのは試訳の「ペリー提督は(略)新たな法律を定め、改善することを決めた」という箇所です。ペリー提督が日本の混浴の習慣に憤慨したのは事実ですが、彼が新たな法律を定める権限はなかったわけで、それはおかしいだろうと思ったのです。それで、もう一度原文を読んだらLe commodore Perry(略)avait été outré de la promiscuité dans les bains et le shôgun qui ne voulait sans doute pas passer pour un dépravé décida d'y remédier avec une nouvelle loi.となっていました。新たな法律を定めたのは(徳川)将軍だということです。

この一語を見落としたことが大きかった。

その箇所ですが、9. passer pour~には「~と思われる」という意味が辞書にあるので、将軍が不道徳をそのままにしたくなかったというより「(ペリーに)不道徳だと思われたくなくて」という消極的な感じでよいのではないでしょうか。

それも史実とは異なりますけれど訳注、ともかく、「あれっ?そうなの?」感はないですね。

私が文の流れの中で「あれっ?」と思ったのは番台を通るところです。もう一度、主語は誰なのかを良く考えながら読み直すと、全然違うストーリーが見えてきました。

どういうストーリー?

つまりカロリーヌとペネロプはおしゃべりに夢中になっていて、番台の人に入浴料を払うことを忘れて入ってしまったということです。試訳ではresquillrを「盗み見る」と解釈していますが、「割り込む」とか「ただで入る」と解釈すると辻褄があってきます。脱衣場でそれに気付いたけれど、もう裸になってしまっているので、お金を払いに戻るには遅すぎたということでしょう。

 

10. Le surveillant de notre sentô évite de croiser le regard des baigneuses.のところですが、番台さんは男(le)だから女性客 11. (des baigneuses)と目を合わせないのでは?一般的なお客さん全体を指すならばdes baigneursでよいと思うので、意味があるのかなと。

そこは見落としました。確かに、Le surveillantは男性形ですね。番台に上がっている男性は女性客とは目を合わせないようにしているのでしょう。12. 「私達が行った銭湯の番台のおじさんは、女性客と視線を合わせないようにしながら、お風呂代をもらうために手を差し出す。」かな?13. それでカロリーヌとペネロプがお金を払わなかったことに気づきもしなかったということか?

 

あるいは、気づいたけれど、注意しても外国人2人には言葉が通じないと思ったのか?

他に何か気づいた人はいますか?

 

14. その前の「まず風呂桶に入る前にからだを洗う『掛湯』に浸かる」という箇所ですが、掛湯は入浴前にお湯を浴びることですから、浸かるはおかしいです。それに銭湯なら風呂桶ではなく、浴槽か湯船でしょう。

15. essayons de repérer deux tabourets について、最終的には「取る」なのでしょうが、洗い場に入って皆が座って洗っているのを見て、「目で探している」状況かと思います。翻訳としては、「小さな腰掛けを二つ、目で探した」かな。あるいは、洗い場に空いている二人分の場所を探したということでしょうか。

そのとおりです。Repérer:Nous cherchons des yeux (avec le regard) deux tabourets pour aller nous assoir dessus. = repérer deux sièges vides au cinéma. Pas de précision sur le fait de les prendre mais cela peut être implicite.

 

この後の数パラグラフはこれから著者が入ろうとする洗い場の描写です。その後に、著者が洗い場に足を進める記述があります。ちなみに試訳では「桶を抱えて~」となっていますが、「腰掛を抱えて~」のミスでしょう。それはともかく、「腰掛を抱えて(Mon tabouret sous le bras)」いるので、ここでは腰掛を「取る」のが正しいのでは?

 

必ずしもそうとも言い切れません。腰掛を探す⇒洗い場の様子の描写⇒腰掛を抱えて洗い場に入るという流れでも違和感はないでしょう。

私自身の質問として、16. astique le dos de sa voisineのastiquerはどういう意味か事前にカロリーヌにメールで尋ねたのです。「背中を流す」だったら再帰動詞を使うような気がしたものですから。回答は frotter avec énergie, vigueurということで、背中をごしごし擦るということだそうです。

17. 「陶器で作られた象」と試訳されている箇所はun éléphant dans une boutique de porcelaineですから「陶磁器のお店にいる象」です。それで、辞書のéléphantをもう一度丹念に見てみたら、un éléphant dans une boutique de porcelaineがあり、「がさつな人」「話などをぶち壊すドジな人」「へまをして話をぶち壊す人」という意味で使われる表現だと分りました。ここでは「場違いなやつ」とか「空気が読めない人」ということですね。

それで少し表現を変えて優雅な生け花用の花器の間にいる素っ裸の相撲取りのように場違いな私としたわけですね。

試訳で「お湯の中に浸かっているとき」と訳されている箇所は原文では18. se frottentなので、もしかしてflotter (浮かぶ)と勘違いしたのでは?知っている単語ほど気を付けないと。

 

19. éponges métalliquesって何?まさか金たわし?

aussi grand qu’un confetti 「小さい」ことを強調したいのだと思うので、訳としては「大きさ」より「小ささ」の方が紙吹雪の意味がでるかと思います。

その通りなのですが、紙吹雪のサイズというのはよく分からないです。私のイメージでは数センチ角の切手大のように思えるのですが。

20. 辞書にgrand comme un confetti で「極めて小さい」という意味が出ていました。それからcache-sexeは極めて露出度の高いビキニショーツの意味だそうです。手ぬぐいを極めて小さなビキニショーツの代わりにして自分の前を隠して、ということでしょうか。普通だったら裸を隠すのにバスタオルを胸から腰まで巻くのに、小さな手ぬぐいしか無いんだからというニュアンスですかね。

そこまで詰め込むと鬱陶しいから、試訳通り、手ぬぐいで前を隠すだけで良いでしょう。

最初はすんなり読めて、誤訳や間違いが少ないと思ったのに、検討すると出てきますね。他には?

「勢いよく体に湯を掛けて」は原文にないように思います。

 

21. 勢いよく云々は「自分の鼻でシャワーを浴びる象(l'éléphant qui se douche avec sa trompe)」「に類似した(tenir de)」やり方だったと考えると感じがつかめるのでは?

ていうか、「陶磁器のお店にいる象」の続きで、その象が自分の鼻で体に水を浴びせるようにバシャーッとお湯を浴びていると言いたいのではないでしょうか。

最後までカロリーヌの言葉選びに振り回されましたね。

部員B

カロリーヌ

部員C

部員D

部員B

部員D

部員B

部員D

部員B

部員D

部員B

部員D

部員B

編集長

部員C

部員D

編集長

部員B

部員D

部員B

部員D

部員D

部員B

などなど、、、問答を経て。

↓↓↓

<部員による検討結果>

銭湯

夕方、同じ階に住むエメリックを連れて下北沢の銭湯に行くことにした。日本人にとって夜の入浴は、なにがあろうと果たさなければならない大切な儀式だ。遅い時間に帰宅しても日本男児は、彼のために沸いているお湯の中にその日の緊張を文字通り「洗い流さずに」寝ることはない。夜寝る前に、熱いお風呂に入れば直ちに疲れがとれ、リラックスすると考えられている。

 

これから行く銭湯は、私たちが住んでいるところから電車で二つ目の駅の観光客からも流行からもはずれた親しみやすい一画にある。通りの奥の古い木造の建物の背の高い煙突からは煙が出ている。ほどなく、友人のペネロプとヒデユキが、木綿のカーテン(暖簾)の前の入り口に陣取っているのに気がついた。

 

ペネロプとわたしは、赤い漢字でそれと記された女性専用口から入る。この銭湯は戦前から建っていて、清潔感がある。受付にある自動販売機で少量の石鹸とシャンプーを購入する。

 

「番台」と呼ばれる係の人は、まるでテニスの審判席のように高い椅子に腰を据え、男湯側と女湯側の入り口を同時に管理している。19世紀末から混浴は禁止されているので、風呂場は、実際2つに分かれている。(1853年日本に上陸したペリー提督は、混浴の風習に憤慨し、時の徳川将軍は恐らく(ペリーに)不道徳だと思われることを望まず、新たな法律を定め、改善することを決めた。)

 

わたしは、ねずみになって男湯と女湯を分けている壁の小さな穴をすり抜けたいといつも思っていた。昔その小さな穴は、家族の石鹸をやり取りに使われていたのだ。

 

銭湯の番台のおじさんは、女性客とは視線を合わせないようにして、わずかな入浴料をうけとるために手を差し出すだけである。そして私たちはおしゃべりに夢中で、そのわずかな代金を払わずに入ってしまったと気が付いたのだが、それは脱衣場に着いてからだった。番台さんは私たちがただで入ったかどうかに注意も払わなかった。いずれにしても、わたしたちの今の格好では、その間違いを直そうとするにしてもすでに時遅しである。

 

まず湯に浸かる前にからだを洗う「掛湯」をする洗い場に入る。わたしたちは、まず、小さな腰掛を二つ探した。お客さんはさまざま。お母さんが小さな男の子の頭から足の親指まで冗談を言いながらごしごしと洗っている。(男の子が女湯に入ってもいいのは8歳まで)小さな糠袋で肌を擦っているおばあちゃん。楽しそうに笑いながらお隣の背中をごしごし洗っている女の子や、歯磨きするひと。まるで各自の美容法に従うエステ教室さながらだ。

 

白状すると、ねずみになりたいと思っていた私は、むしろフランス語の表現にある「陶磁器店に入り込んだ象」のように場違いに感じられた。(何と言ったらいいだろう、花瓶のお店の中にいる真っ裸の相撲取りみたいとでも言おうか。)普段はとてもすましている日本女性が、ひとたび銭湯で裸になると信じられないくらいくつろいでいる。ナイロン製タオル、軽石、メタリックなスポンジや自然素材のヘチマなどの道具を使って体を擦ったり、ごく自然に、このお清めの儀式を行っている。からだを折ったり、延ばしたり、丸くなったりしているのだから。

 

日本では、皮肉として「カラスの行水」と呼ばれているが、朝の短時間シャワー愛好家として、この長風呂習慣には恐れ入ってしまう。

 

華奢で小柄な銭湯の女たちは、子供部屋用ではないかと思われるような小さな腰掛に坐り、道具も同様に、石鹸、タオル、桶も小ぶりなものだ。この人形の世界の調和を壊さぬようわたしは、濡れたタイルに足を滑らせないようにしなければならない。

 

腰掛を抱えて、「手ぬぐい」という極めて小さいタオルで、裸の自分の前を隠しながら前進する。

 

(タイル張りの床から30センチのところに設置された)小さな蛇口の前にしゃがみ、あごの下に膝を置く。こんな風に縮こまって、わたしは、お隣さんが体をしっかりと擦り、勢いよく体に湯を掛けているところを控えめに観察する。わたしはそそくさと自分の体を石鹸で洗い(今朝、カラスの行水をしてきたばかりだったので)お隣の真似をして、「丸小桶」と呼ばれる桶にたっぷりお湯を入れて洗い流す。まるで自分の鼻で水浴びをする象のようなやり方だったに違いない。なぜならお隣さんは、(最後に)自分を冷たい水で洗い流し、しっかりとからだを拭く前に、控えめにわたしとの距離をとったからだ。

 

 

※訳注:江戸時代に入ると、大都市で銭湯が大衆化した。銭湯に垢すりや髪すきのサービスを湯女(ゆな)にやらせる湯女風呂などが増加した。松平定信が、1791年、江戸の銭湯での男女混浴を禁止する男女混浴禁止令を出すなど、風紀の取り締まりの対象にもなった。これは混浴そのものよりも、湯屋における売買春などを取り締まるものであったと言われる。当時の湯屋は二階に待合所のような場所があって将棋盤などが置いてあり社交場となっていただけでなく、湯女などによる売春や賭博などの格好の場となっていたためである。しかし依然として混浴が主流であった。1853年、混浴銭湯に冷や水を浴びせる出来事が起こる。幕末の黒船来航である。さまざまな日本文化は来日したペリーを驚かせた。裸でぶつかり合う相撲などもそうだが、特にペリーを驚かせたのは混浴銭湯であった。「日本遠征記」には挿絵付でこう記されている。「男も女も赤裸々な裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴しているのを見ると、この町の住民の道徳心に疑いを挟まざるを得ない。他の東洋国民に比し、道徳心がはるかに優れているにもかかわらず、確かに淫蕩な人民である」。明治新政府は、欧米への体裁を気にし、混浴禁止令を出す。

 

 

やはり、日本の銭湯は異文化の人から見たらとてもユニークなものにみえるのでしょうか?

1月のエコール・プリモの講座「フランス語で街歩き」の銭湯編でゲスト講師として参加していただいた、フランス人にして日本の銭湯大使のステファニー・コロインさんは曰く、銭湯はコミュニティーの場だと言っていました。(レポート>>)しかし、日本人の今の若い人からしても、多くはカロリーヌさんのような印象を持つのかもしれません。ここは翻訳問答のメンバーの世代が知れるところです。さぁ、一日の疲れを流しに行きますか。

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